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雨のち晴れ

恵理さんのケース
(※下記はご依頼の方の体験を基にしたライターによる加工執筆です)

 夕暮れからの雨は、深夜になってもまだ降っていた。
  恵理が雑誌から目を外すともう12時。夫の慎司はまだ帰らない。今日も残業なのだろう。
  テーブルには冷めきった食事と、娘が書いたパパの画がある。この前の父兄参観は「一緒に出る」と言っていたのに、接待ゴルフでドタキャンされてしまった。
  テレビでは過労死のニュースが流れている。仕事が忙しいのはわかるけれど、慎司も無理しないでほしい――そう思っていたとき、電話が鳴った。
  こんな時間、もしや慎司に何かあったのかと不安になり、急いで電話をとった。
「もしもし?」
『………』
  受話器の向こうは無言だった。悪戯電話なのだろう。恵理はさっさと受話器を置いた。

「ただいま」離婚相談室
  ほどなくして、慎司が帰ってきた。
「おかえりなさい。あら、ずぶ濡れじゃない」
「会社の駐車場にいる時、すごい雨でさ。あ、飯いい。会社でほか弁食べてきた」
「もう、だったら電話してよ」
「部長もいたんだ。一回一回電話してたら、まだ新婚さんかってからかわれるだろ」
  慎司は苦笑しながら背広を脱ぎ、そのまま浴室へ向かっていった。

 結婚して6年、子供も3歳。確かに新婚さんではないけれど、もっと一緒にいる時間はほしい。だが、きっと多くの妻がこう思っているのが現状なのだろう。友人は「亭主元気で留守がいい」と言うが、自分はそういう心持にはまだまだなれそうにない――恵理はそう思いながら濡れた背広をハンガーにかけた。
「あら?」
  ポケットに携帯の他に、何か硬いものが入っている。取り出してみるとそれは鍵だった。家の鍵ではないから、おそらく会社のものなのだろう。携帯は面倒だと言っていたのに、今や仕事でなくてはならぬもののようで、きちんとロックもかけてあった。
  慎司が忘れぬよう両方をテーブルの上におき、恵理は手のつけられなかった夕食を片付けようとした。
  トルルル――再び電話が鳴った。
「もしもし?」
『………』
  受話器の向こうはまた無音だった。同じ人が悪戯でかけてきているのかもしれない。
  もう夜も遅い。こんな電話なんかにかまっている暇はない。
  恵理は少しだけ気味悪く感じながらも、電話をきった。

「また電話……」
  恵理は目をこすりながらも子機ととった。時計を見ると2時すぎだった。
  あれから2週間。電話は夜中にかかってくる。頻度はさほどでもないが、寝入りばなを起こされることもあり、慎司も不機嫌そうに目を開けた。
「なに、誰から?」
「悪戯電話みたい、いつも無言なの」
  電話をきり、恵理はため息をついた。
「子供とかじゃないか。そういう悪戯、流行ってるだろ」
「でも迷惑よ。もう20回はかかってきてるし……こういうのって警察に相談したほうがいいのかしら?」
「馬鹿だな。悪戯電話ぐらいで警察行くなよ」
  大きくあくびをして、慎司は布団に潜り込んだ。
「子機の電源切っちゃえよ。そのうち向こうが飽きるさ」
「そうね」
  恵理は子機の電源を切り、留守録に切り替えると、自分も眠りについた。

 あくる朝、留守録が入ったことを示すランプが点滅していた。
『録音ハ、22件デス』電話の通知に恵理は背筋が寒くなり、慌てて慎司を呼んだ。
「ねえ、あれから22回も電話があったみたい。どうしよう……」
  だが、慎司は再生することもなく、留守録の消去ボタンを押した。
「あ、まだ聞いてないのよ」
「悪戯に決まってるだろ」
  慎司は不機嫌に答えた。
「でも……」
「いいからほっとけ!俺の言うことが聞けないのか!」
  慎司はいきなり怒鳴った。部屋にいた娘が驚いて泣き出し、恵理は慌てて駆け寄った。
「怒鳴ることないじゃない」
「もう朝食はいい、行って来る」
  怒鳴ったのでバツが悪くなったのか、慎司は部屋から出て行った。
  恵理は胸の奥、何かがきしむ音を聞きはじめていた。

 ただの被害妄想なのかもしれない。電話の前で恵理は迷っていた。
 残業や休日出勤も多いし、残業代カットだから持ち出しがあってもおかしくない。態度がどこかよそよそしいのも忙しくて疲れているから。疑うなんて馬鹿げている。
  けれど、無言電話は少なくなったが、かかっているのは慎司のいるときだけ。悪戯電話の話をすると途端に機嫌が悪くなり、会話がぎくしゃくする。このところ声を荒げることも多くなった。都合が悪くなると怒鳴ってすますような人ではなかったのに……
  このままでは、夫婦としても、家庭としてもダメになってしまうかもしれない。
「相談だけでもしてみよう……」
  恵理はようやく探偵会社の番号を押した―――


 外は今日も雨が降っていた。
  娘がまだ保育園にいる時間、恵理はパートを休んで探偵会社に足を運んだ。慎司の行動調査の結果を受け取る為だ。
「こちらです」
 そう担当者から手渡されたそれは、思いほか厚かった。
 探偵会社の奥、椅子に腰掛けなおし、恵理は大きく深呼吸した。
 ページをめくれば、鮮明な夫の横顔。そこに揃ったのはモスグレーの服を着た若い女。二人は堂々と寿司屋に向かい、その後、ラブホテル前で何枚もの写真を撮られていた。女の部屋にあの鍵で入ってゆく慎司の姿もあった。まるで頼んで撮影させてもらったように慎司と女の笑顔が写っている。

「どうして、ですか?」
  尋ねる相手を間違えている――わかっていたが、言葉を止めることができなかった。
「どうして……なんで浮気なんか……!」
  泣き伏す以外、恵理にできることはなかった。


 しばらくして、担当者が飲まなかったコーヒーを入れ替えてくれた。
 勧められた熱いコーヒーを受け取り、恵理はすみません、と小さな声で謝った。
 慎司の浮気は2年ほど前からで、週に二度ほど会っていたらしい。相手は会社の部署違いの女で、連絡もしやすかったのだろう。恵理がメモしていた悪戯電話の時間、相手の女が携帯から電話をしているのも調査書で確認できた。
  居酒屋での会話文もあった。「いつ奥さんと別れるの?」「もうちょっと待ってくれ」その部分を長くみていたせいか、テープを聞かれますか、と調査員に尋ねられ、恵理は首を横に振った。

  事実が完全にわかると不思議なほど落ち着いた。
  相手の女は慎司が離婚して、自分とやり直すと思っている。慎司も2年も浮気を続け、相手の女が無言電話をしていると知っていながらごまかしてきた。
  もう一度、慎司を夫として尊敬し、家族として大切に思う――それはできそうになかった。
  けれど、幼い娘だけは絶対に自分が守って育ててやらなくてはいけない。

「すみません、離婚したいと思います。これからどうしたらいいか、教えてください」
  自分の声が、やけにはっきりと聞こえた。
  窓の外、雨はやんでいた。


 恵理は胸まであった黒髪をばっさりと切った。そして日曜日、娘を実家に預け、慎司が起きてくるのを待った。慎司が起きてきたのは、11時すぎだった。
「日曜まで仕事の進捗見にいかなきゃいけないなんて、やってらんないなあ」
  しらじらしいと思いながらも、恵理はつとめて冷静に言った。
「デートなら、もう気にせず行ってきていいわよ」
「え?」
「離婚してください」
「お前、何、馬鹿な冗談言ってるんだよ!」
「あなた、浮気してる人がいるでしょう」
「仕事で食事に行ったり飲んだりすることはあるけど、お前がいるのに浮気なんかするわけないだろ。帰ってくるのが遅いのは仕事なんだし……お前、ちょっと被害妄想なんじゃないか」
  慎司はごまかそうと必死だった。その姿が恵理にはひどく滑稽に思えた。
「全部知ったの」
「まさか、あいつが喋ったのか?!いや、その、ほんの出来心なんだ。付き合いだってほんの短い間で、すぐに別れるから――だから許してくれ」
  よくも次から次へと言い訳が出てくるものだ。恵理は半ば苦笑しながら答えた。
「もういいでしょう。出来心で2年も続かないもの。あなたが離婚してくれないって言うなら、あとは弁護士さんと相談するから」
「勝手なことを言うな!離婚はしない、娘も渡さないからな!」
  慎司がきれた。だが、恵理はもう怒鳴られても怯えることはなかった。
「無理よ。全部知ってるって言ったじゃない。勝手なのはどちらか考えてみて」
  恵理は上着を持って立ち上がった。
「待ってくれ、恵理!」
  その呼びかけに、恵理はもう振り返らなかった。

離婚相談室
「今月も入ってる、と」
  慎司からの養育費の振込をネットバンクで確認し、恵理はうなずいた。
  娘はやんちゃ盛りの5歳。実家では祖父母に可愛がられ、すくすくと育っている。
 跡取りのはずの弟は、姉が帰ってきたのを幸いと思ったか、一人娘の彼女のところへさっさと婿入りを決めてしまった。どうやら恵理は実家の「跡取り」にされてしまったらしい。

「ママ、明日これ着たいの!」
  娘がピンク色のワンピースをひきずってきた。まだサイズの大きいそれは、慎司に買ってもらったものだ。
「園のピクニックにスカートはダメでしょう?」
「じゃあ、下にズボンはくから」
「ダメなものはダメ」
「……けち」
「パパと会うときに着なさい」
「はーい」

  娘は月に一度、パパである慎司と会っている。夫婦は別れても親子関係はずっと続く。しかし、心配するよりもずっと早く、娘は大人の事情を理解したようだ。
  もっと落ち込むかと思ったが、毎日が忙しくその暇もなくここまできた気がする。
 離婚が確定してからの引越し、パートから正社員になった仕事、娘のPTAの役員もクジであたって引き受けた。片親だからできないとは言いたくなかった。
 慎司はすぐに再婚するだろうと思ったが、まだ独身だ。
 共通の友人から浮気相手の女とは別れたとも聞いた。恨む気持ちはゼロとは言えないけれど、娘のパパとして、不幸にはなってほしくないくらいには思っている。
 最近は自分も再婚をよくすすめられるが、まだ考えられそうにない。

「ママー、おやつ、プリン食べたいー!」
「はいはい」
  娘の笑顔のおねだり攻撃に、恵理はパソコンの電源を落として立ち上がった。

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